ディズニー映画『塔の上のラプンツェル』の原作が、グリム童話の一部であることをご存じだろうか?
グリム童話というと、「本当は怖いグリム童話」のイメージもあって、全部の話が怖いようなイメージを持たれる人も少なくないだろう。
グリム童話の『ラプンツェル』も、本当は怖い話なのだろうか。
この記事では、ディズニー版とグリム童話版の9つの違いに注目しながら、「原作のラプンツェルがはたして怖いのか」を探ってみたいと思う。
違いその1.ラプンツェルは姫じゃない
ディズニー版『塔の上のラプンツェル』では、主人公ラプンツェルは王さまとお妃さまの間に産まれたれっきとした「姫」である。
つまり、『白雪姫』や『眠れる森の美女』と同様、ディズニーの『ラプンツェル』は、お姫さまが悪者を倒して幸せになるプリンセスストーリーなのである。
王国に生まれた姫がさらわれてしまうところから、映画は始まっていくわけだ。
対して、グリム童話では、ラプンツェルはお姫さまではない。
子どもに恵まれない普通の夫婦がやっと授かった一人娘である。特に大きな王国の娘ではなく、ごく普通の一般人だ。
ディズニー版では、いなくなってしまったラプンツェルを国中が探し、姫の誕生日には毎年ランタンを飛ばしていた。
そのくらい、王国にとって希望のお姫さまだったのである。
その点、グリム童話では、ラプンツェルは特に目立った存在ではないため、国中が探し回るなんてことはない。
そういう意味では、愛に満ち溢れたディズニーのラプンツェルに対して、グリム童話のほうが冷めた感じに思えるだろう。
違いその2.ラプンツェルを育てるのは魔女
グリム童話の原作では、ラプンツェルを育てるのは「魔女」である。
それも、ものすごい力を持っていて、世界からも恐れられている魔女だ。
対して、ディズニー版ではただのおばあさんである。
魔女のようにもみえるが、実は魔女ではない。
黄金の花の魔力(ラプンツェルの髪の魔力)で生き延びているだけのおばあさんだ。
見た目は若いが、ただ花の力を使っているだけなので、実年齢は400歳にもなる。
魔術を使える設定もないため、花の力をこれでもかというくらい欲しがる姿が描かれるわけだ。
しかし魔女ではないにしろ、盗賊を手玉にとったり、ナイフで脅したりする場面は、魔女っぽい怖さもにじみ出ている。
ちなみに、ディズニー版では「ゴーテル」というキャラクター名がついているが、これは原作も同じ。
グリム童話でも「ゴーテルばあさん」と呼ばれている。
実はこの「ゴーテル(gothel)」というのは、ドイツ語の方言で「名付け親」を意味する。
名づけ親とは、本当の親ではなく、キリスト教の洗礼時に子どもに名前を付けてくれる親のことだ。
ラプンツェルにとっては、つまりは育ての親ということ。
『塔の上のラプンツェル』では、英語では「Mother Gothel」と呼ばれていた。
これは、名づけ親の母親を意味しているわけだ。
違いその3.ラプンツェルの名前の由来は、盗まれた野菜
『塔の上のラプンツェル』では、なぜラプンツェルがラプンツェルという名前なのかが語られていない。
実は、ラプンツェルという名前は、植物のラプンツェル(日本名:野ヂシャ)からつけられたものだと原作では描かれる。
ラプンツェルは、ヨーロッパではその葉がサラダとして食べられている野菜だ。
日本ではなじみがないが、スイカズラ科で小ぶりな花が咲く(決して華やかな花ではない)。
なぜ、ラプンツェルなんて野菜の名前がつけられたのか。
それは、原作の『ラプンツェル』では、魔女の庭から野菜が盗まれれるところから物語が始まるからだ。
ある夫婦がずっと子どもを欲しがっていて、やっと念願の子どもを授かった夫婦に悲劇がおとずれる。
妊娠中の奥さんが、隣に住む魔女の庭にあるラプンツェル(野ヂシャ)が食べたくて、食べたくて、やつれ果ててしまうのだ。
それこそ、死ぬほど食べたくなった、らしい。
妻を愛している旦那は「よし、わかった」と魔女の庭からラプンツェルを盗む。
そのサラダを食べた奥さんは美味しさにすっかり魅了されてしまう。
一度では飽き足らず、妻のためにまたしても夫は盗みに入る。
まさに中毒の世界だ。
しかし、そんなに何度も盗みに入っていたら、さすがに魔女に見つかってしまう。
魔女は一度は激怒したものの、夫から事情を聞くと怒りをしずめて、こう言う。
「そういうわけなら、ラプンツェルをほしいだけ、もっておゆき。だが、1つ条件がある。おまえの妻が産む子どもを、私に渡すのだよ」
魔女の恐ろしさのあまり、夫はつい約束してしまう。
こうして、魔女はこの夫婦から子どもを奪い取った。
そして、「ラプンツェル」と名づけたのである。
野菜のラプンツェルを奪われた腹いせだったかもしれない。
ディズニー版と違い、グリム童話の魔女は、他人の土地に咲く花の魔力を独り占めしているわけではない。
自分の庭で手塩にかけて育てた野菜がこっそり盗まれたら、誰だって怒りたくなるだろう。
しかも、一度ならず二度も盗みに来るなんて。
放っておいたら、あの夫は間違いなく何度も魔女の庭に忍び入ったはずだ。
娘のように大切に育てた野菜を盗まれたんだから、相手の娘をもらう権利がある、と魔女は考えたのかもしれない。
そう考えると娘に「ラプンツェル」という名前を付けたのも納得できる。
違いその4.ラプンツェルの塔は12歳から
『塔の上のラプンツェル』では、ラプンツェルは赤ちゃんのうちに誘拐されてしまう。
それからずっとゴーテルによって塔に入れられてしまうわけだが、グリム童話では、ラプンツェルが12歳になってから塔に閉じ込められる。
12歳になるまでは、普通に魔女の家で育っていたわけだ。
まったく外の世界を知らないディズニーのラプンツェルに対して、大事な幼少期はそれなりに開放的だったのがグリム童話のラプンツェル。
そういう意味では、ディズニー版のほうが原作よりも「怖い」と言えるかもしれない。
違いその5.ラプンツェルが塔の中で受ける待遇
赤ちゃんの頃からずっと塔に閉じ込められているディズニーのラプンツェル。
塔の中で18年間も監禁状態か……と思いきや、これが意外と塔の中でも快適そうだ。
絵を描いたり、ヨガをしたり、クライミングをしたり、読書をしたり、料理もしたりと、けっこう多趣味でやりたいことをやっている。
閉じ込めれらた生活の中で、どこでそんな教養を身につけたのだろうか……というレベルで、絵の腕前もすばらしい。
塔の中にいるものの、そこそこに遊ぶものは用意され、いい待遇を受けていると言わざるを得ない。
ゴーテルはゴーテルなりに、ラプンツェルをのびのびと育てているのである。
もちろん、グリム童話のほうではそんな待遇は一切ない。
何もない塔の中で、さぞ退屈に暮らしていたことだろう。
なんだかんだで閉じ込められたのは12歳からなので、それまでは意外とのびのび育てられたのかもしれないが。
退屈そうな塔の中で、ラプンツェルがすることといえば、歌を歌っていることくらいだ。
ラプンツェルの歌に関しては、ディズニー版とも共通のテーマと言える。
そして、この歌のせいで、通りがかった王子を引き寄せることになる。
違いその6.魔女はラプンツェルを守っていた
『塔の上のラプンツェル』では、魔力を持った黄金の花が物語の鍵になる。
ゴーテルがラプンツェルを閉じ込めるのは、黄金の花の魔力を独占したいからだ。
物語の冒頭、ラプンツェルを妊娠したお妃さまは、重い病にかかってしまう。彼女を治すためには、黄金の花が必要だった。
だがその黄金の花は、ゴーテルが若さを保つために隠していたのだ。
王国の人々は花を探し出し、お妃さまの病気を治す。
そして今度は、そのお妃さまから産まれた娘、ラプンツェルの髪に花の魔力がやどるというわけである。
ディズニー版では、金色に輝く黄金の花がたびたび登場し、ラプンツェルはいわばその花の化身のような存在である。
その魔力を自分だけのものにするために、ゴーテルはラプンツェルを誘拐する。
そして、彼女を塔の中に18年間も閉じ込めてしまうわけだ。
そんな強欲がありながらも、しっかりラプンツェルを育ててきたゴーテル。
だが、最後は花の力がなくなり、塔の上から落ちて、灰となって消えてしまう。
利用されていたとはいえ、18年も育ててくれた育ての親が目の前で粉々に消えてしまい、ラプンツェルも複雑な気持ちだっただろう。
しかし、やっぱり自分の欲のためだけにラプンツェルを奪い、監禁していたのと同じなので、悪者は悪者だ。
消されてしまってもしょうがない(ちなみに、塔から落ちるその最後のきっかけを作るのは、カメレオンのパスカルである)。
一方、グリム童話では、魔女は黄金の花を独占しない。そもそも黄金の花なんてものは存在しない。
グリム童話では、魔女は夫に次のような約束をしている。
「子どもにはよくしてやるよ。母親のように面倒をみてやるからね」
では、実際はどうだったのだろうか。
魔女がラプンツェルを塔に閉じ込めたのは、おそらくラプンツェルに対する愛情からだ。
原作には、ラプンツェルが塔に閉じ込められる前に
「この世で一番かわいらしい女の子に育ちました」
とある。
母親代わりの魔女は、そんなにかわいい娘に変な男がつくことを心配して、まっとうな男が現れるまで塔に閉じ込めることにしたのかもしれない。
しかし、魔女の心配をよそに、ラプンツェルは毎晩のように王子様と密会を重ね、しかも子どもまでつくってしまう。
それがわかった時の魔女のセリフが痛々しい。
「この罰あたりめ!おまえからそんなことを聞くなんて、なんてこと。あたしゃ、おまえを世間から遠ざけていたとばかり信じていたのに、よくもだましてくれたね」
魔女にしてみれば、大切に守っていた、若く(原作はたぶん15歳くらい)かわいい娘に裏切られたのである。
あまりのショックにラプンツェルの長い髪を切り、彼女を荒野に置き去りにしてしまう。
魔女のわかりにくい愛情表現が招いた悲劇。
どんなに愛していても閉じ込めるのは良くないという、最たる例である。
違いその7.ラプンツェルと結ばれるのは王子
もうお気づきだろうが、グリム童話でラプンツェルが最後に結ばれるのは「王子」。
『塔の上のラプンツェル』では、ラプンツェルと最後に結ばれるのはただの「盗賊」である。
原作とディズニー映画とで、立場が逆転しているようだ。
<ディズニー>
ラプンツェル:お姫さま、結婚相手:盗賊
<グリム童話>
ラプンツェル:一般人 結婚相手:王子さま
原作では、お姫さまでもないラプンツェルが王子と一緒になるので、ある意味「シンデレラストーリー」と言えるかもしれない。
ディズニーのほうでは、むしろ「逆シンデレラストーリー」だ。
ラプンツェルの恋の相手は、王子さまではなく、ただの泥棒。
しかも、2人は一目ぼれではなく、物語が進むにつれ、だんだんお互いに惹かれあっていく。
そんな2人の様子に、大人の女性でもついキュンキュンしてしまうのである。
さすがディズニー。
乙女心をつかむ、恋愛ドラマ的な要素が満載だ。
相手の男が王子ではなく、むしろ悪者だというあたり、余計にエキサイティングになるのだろう。
そんな逆シンデレラになる盗賊の名前はフリン・ライダー。本名ユージーン・フィッツハーバート。
子どもの頃に読んだ冒険物語の主人公の名前がフリナガン・ライダーであったため、その名を名乗って盗賊をやっている。
親がいない孤児で、これまでも一人で数々の困難を乗り越えて生きてきた。
やさしい心を持つラプンツェルと一緒にいるうち、誠実な心を取り戻していくわけである。
違いその8.ラプンツェルの王子は目が見えなくなる
王子にしろ盗賊にしろ、ラプンツェルのお相手は物語の最後で身体を痛めつけられる。
『塔の上のラプンツェル』では、盗賊フリン・ライダーはゴーテルにナイフで刺されてしまう。
刺された後は、そのまま息絶えてしまうのだ。
一方、グリム童話の王子はなんと自分から「飛び降り」を決行する。
ラプンツェルが荒地に追いやられてしまい、もう会えないとわかった王子は、塔の上から身を投げるのだ。
そして、なぜか身体は無事だったものの、両目にイバラのトゲが刺さってしまう。
このせいで、王子は視力を失うわけだ。
命があるだけマシだろうが、やはりイバラが両目に刺さるというのはなかなか痛々しい。
グリム童話お得意の “残酷な描写” というわけだ。
違いその9.ラプンツェルの涙は、魔力のない涙
物語の最後では、ディズニー版もグリム童話版も、ラプンツェルの涙が奇跡を起こす。
『塔の上のラプンツェル』では、息絶えたはずのフリン・ライダーが涙で生き返る。
グリム童話の『ラプンツェル』でも、目が見えなくなった王子の目が、ラプンツェルの涙で元通りになるのだ。
だが、よくよく考えると、グリム童話版のラプンツェルには魔力は宿っていない。
ディズニー版では、ラプンツェルが流した涙の中に僅かに残っていた魔力のおかげで、再びフリン息を吹き返す。
一方、もともと魔力を持っていたディズニーのラプンツェルと違い、原作のラプンツェルは普通の女の子(のはず)だ。
その涙で目が見えるようになるなんて、奇跡としかいいようがない。
魔女が育てているうちに、魔力が移ったのだろうか……。
グリム童話に細かいツッコミは野暮なので、ディズニーに負けず劣らないハッピーエンドとして、エンディングを迎えよう。
いつの時代でも、世界のどこでも、やっぱり女の涙には魔力がやどるのかもしれない。
まとめ
今回は、ディズニー映画『塔の上のラプンツェル』と、原作であるグリム童話の『ラプンツェル』を9つの視点から比べてみた。
こうして見てみると、グリム童話の『ラプンツェル』は必ずしも怖いというわけではないが(むしろディズニーのほうが怖いことも)、やはりディズニー版と比較して「ダークな感じ」になる要素はありそうだ。
少なくとも、ディズニーのようにキュンキュンするラブストーリーではないことは確かだ。
最終的にはディズニー版でもグリム童話版でも、ラプンツェルは恋人と結ばれ、幸せに暮らす。
形は違えど、恋に関してはハッピーエンドだ。
ディズニーでもそうだが、グリム童話でもゴーテルが塔にラプンツェルを閉じ込めていたからこその出会いであり、幸せな結末につながったととも言える。
原作『ラプンツェル』の怖さは、そんな魔女を裏切ったラプンツェル自身に、むしろあったのかもしれない。
■初版のラプンツェルについてはこちら↓
⇒ラプンツェル好き必見!魔女がいない、グリム童話初版の妖精物語
■引用
『グリム童話全集―子どもと家庭のむかし話』