今回は、あの有名な『シンデレラ』の原作で描かれる残酷な内容を紹介しましょう。
グリム童話のKHM021『灰かぶり(シンデレラ)』です。
シンデレラといえば何を思い浮かべますか?
カボチャの馬車。
ガラスの靴。
12時の鐘。
シンデレラを読んだことがない人でも一度は耳にしたことがありますよね。聞いただけで、夢が広がるフレーズではないでしょうか。
さらにシンデレラ城はディズニーランドやディズニー映画のシンボルにもなっています。シンデレラはディズニーの魔法の世界になくてはならない存在なのです。
しかし実は、グリム童話最終版の『シンデレラ』には、カボチャの馬車も、ガラスの靴も、12時の鐘も登場しません。
本来の原作であるシャルル・ペローの童話や、グリム童話初版の『シンデレラ』はまだマシなほう。なぜか、改訂されたグリム童話最終版では、原作よりも初版よりもさらに怖い内容となっているんです。
夢の広がるストーリー?
とんでもない。
グリム童話のシンデレラは、悪いことをしたらいつかは絶対に痛い目に遭うことを痛いほどに教えてくれる、血が滴る残酷な物語なのです。
それでは、ディズニー版との違いも見ながら、怖いシンデレラを追ってみようと思います。
怖いシンデレラは血まみれの靴から
怖いシンデレラの最大の見せ場(?)は、母親が、シンデレラの姉たちに対して身体の一部を切り落とすよう命令する場面です。
舞踏会から逃げ出す時に金の靴を落としてしまったシンデレラ。
王子は靴を持って、シンデレラの家に行ってこう言います。
「この金の靴が足にぴったり合うお方だけが、わたしの奥方になるのです」
2人の姉たちは大喜び。
しかし、上の姉が履こうとすると、親指が入りません。
すると母親がナイフを渡し、こう言います。
「その指を切り落としておしまい。おまえが妃になったら、もう歩く必要はないのだから」
娘は指を切り落とし、痛みをこらえながら靴をはき、王子の元へ。
王子はいったん娘を馬に乗せて城へ向かうものの、途中で2羽のハトが
「靴の中は、血まみれで、
小さすぎるよ、その靴は
本当の花嫁、まだうちよ」
と歌うのを聞いて、娘の足から血が流れているのに気づきます。
親指を切り落としたのだから、相当な血が靴の中に溜まっていたことでしょう。
次に2番目の娘が靴を履こうとすると、今度はかかとが入りません。
母親はナイフを渡し、「かかとを少し切り落としておしまい」と言います。
自分は痛くないのだから、言うのは簡単でしょうね。
言うとおりにした娘は、痛みに歯を食いしばりながらも、靴に足を入れ、王子の元へ。
しかし、またもやハトたちが「靴の中は血まみれで」と歌い、王子は靴から血が流れ、白い靴下が上の方まで真っ赤になっていることに気づきます。
娘を王子様と結婚させるために「足を削ってしまえ」と言う母親も母親ですが、言われた通りにする娘も娘ですね。相当強欲だったんでしょう。
血まみれの靴。
想像するだけで恐ろしいです……。
そもそもなぜシンデレラの靴はそれほど小さいのでしょうか?
シンデレラの家にやってきたまま母と姉たちは、シンデレラからきれいな服をはぎとり、灰色の仕事着を着せ、木靴を与えました。
木靴は革や布でできた靴のように伸びないので、シンデレラの足はあまり大きくならなかったのかもしれません。
つまり、シンデレラの小さくてかわいらしい足は、まま母と姉のいじめの集大成なのです。
姉たちは、自分の足をナイフで削らなければならなくなる原因を自分たちでつくったことになります。
やっぱり悪いことをすると、いつか自分に返ってくるということですね。
まだまだ続くシンデレラ姉たちへの仕打ち
しかし、姉たちが失ったのは足の親指やかかとだけではありません。
シンデレラが王子様と結婚することになると、幸せのおこぼれをちょうだいしようと姉たちがやってきます。
まったく、どこまでも腹黒い。
そして花嫁と花婿が教会に入る時に、上の姉が右側に、下の姉が左側に寄り添うと、シンデレラの左右の肩にとまった2羽のハトが姉たちの片方の目をつつきだしてしまいます。
なんと残酷な……。
さらに、花嫁と花婿が教会から出るときに、2人の姉はそれぞれさっきとは反対側に立ちます。
すると、またもやハトたちが残った方の目をつついて、取り出してしまうのです。
つつくだけならまだしも、取り出してしまうのが残酷ですね。
ディズニーでは、姉たちがあまり美しく描かれていないが、原作では姉たちは色白で、美しいと描かれています。
しかし、心は汚れて意地悪く、腹黒かったので、目玉をハトにくりぬかれ、一生目が見えなくなってしまいました。
まさに、「心が黒いと住む世界も真っ暗になる」という教訓物語なわけです。
シンデレラの原作では父親が残酷?!
さらに細かいところに目を向けると、父親も残酷です。
おそらくディズニー版とグリム童話の最も大きな違いは「父親の存在」でしょう。
ディズニー版では、優しい父親がこの世を去ってしまってから、まま母や姉たちのいじめがスタートします。
一方、グリム童話では父親は生きており、まま母たちと同様、シンデレラを「灰かぶり」と呼び、自分の娘がいじめられていても見て見ないフリします。
冷たい父親ですね。
また、王子様から逃げようとするシンデレラに対する仕打ちもひどいです。
舞踏会1日目にシンデレラが王子様から逃れるため、ハト小屋へ飛び込むと、父親はオノでハト小屋をまっぷたつに壊してしまうのです。
2日目は、シンデレラが逃げ上ったナシの木をオノで切り倒します。
いずれも娘だとわかっていて、やっているんですよ。
一体どういうつもりなんでしょう。
父親は王子にこう言っています。
「わたしの亡くなった妻の娘で、小さくて、できそこないの灰かぶりがおります。それにしてもその娘が花嫁になどなれるわけがございません。」
「できそこない」とは、なんと……。
もう一度言いますが、自分の娘だとわかっている上での、娘に関する発言です。
グリム童話では、父親でさえシンデレラに残酷なのです。
シンデレラは意外に現実的!?
また、シンデレラはいつも灰にまみれていたため、意地悪なまま母と姉たちに「灰かぶり(シンデレラ)」と呼ばれていて、それがそのまま物語の題名になっていることはあまりにも有名です。
グリム童話のシンデレラも朝から晩まで働きずくめ。
日の出前に起き、水を運び、火を起こし、料理に洗濯。
姉たちに無理難題を押し付けられ、笑われ、灰の中から豆を拾い、夜はかまどの横の灰の中で寝る生活。
せめて王子様の舞踏会に行きたい!と願うのも当然です。
むしろここまで無下に扱われても自暴自棄にならず、舞踏会に行きたいと思えるシンデレラの健気な心に涙が出てしまいます。
しかし、もちろん、まま母がそんなことを許すはずもありません。
できるはずもない難題を次から次へと与え、シンデレラがすべてこなしてしまうと、最後には
「何をしてもだめさ。おまえはいっしょに行けないよ。」
と言ってシンデレラを置いていってしまいます。
その気がないのに、人の心を弄ぶあたりがなんとも悪どいですね。
ここまではディズニー映画とほとんど同じ。
このあとディズニー版では妖精が出てきて、きれいなドレスと一緒にカボチャの馬車やガラスの靴を出してくれます。
そしてシンデレラに「12時になったら魔法が消えてしまうから、それまでに必ず戻ってくるんだよ」と告げます。
一方、グリム童話のシンデレラには、夢のような魔法を使う妖精は出てきません。
代わりに小鳥たちがシンデレラに豪華なドレスと純金の靴を出してくれます。
そう、グリム童話の靴はガラスではなく、金でできているのです。
ディズニー版では靴が割れる素材でできていることがのちのち重要になりますが、グリム童話では関係ありません。
そして、カボチャの馬車なんてものも出してくれません。
カボチャの馬車がないシンデレラがどうやってお城に行くのか……。
なんと「徒歩」なのです。
行きは歩いて、帰りは王子様を振り払うために走って帰ります。
原作では舞踏会は3日間開催されるので、それを3回繰り返すわけです。
また、シンデレラの帰宅の合図は12時の鐘ではなく、日暮れです。
しっかり者のシンデレラは夜中の12時まで踊り続けたりなんかしません。
魔法が消えてしまうという理由がなくても、暗くなる前にしっかり地に足をつけて、自分の足で家に帰るのです。
実は意外に現実的なお話というわけですね。
まとめ
今回はシンデレラについて、ディズニー版とも比較しつつ、残酷な内容を紹介させていただきました。
グリム童話の『シンデレラ』は、姉たちがこっぴどくしっぺ返しをうけます。外見は美しくも、心の汚い姉たちは自分で自分の足を削り、王子様とは結婚できず、最終的にはハトに目の玉をくりぬかれます。
しかし、すべては自分たちがまいた種が招いた結果。意地悪なまま母はなんの仕打ちも受けませんが、シンデレラが幸せになるということが一番の痛手かもしれません。
父親にも残酷な描写があり、意外と現実的でもありで、きらきら輝く夢のシンデレラストーリーとはほど遠いグリム童話の『シンデレラ』。
ペローの原作よりも、グリム童話初版よりも怖いのが、最終版グリム童話の『シンデレラ』です。。
あなたがシンデレラ好きなら、一度読んでみてはいかがでしょうか?