ディズニーアニメ『リトル・マーメイド』の原作はアンデルセン童話の『人魚姫』。そのストーリーは、ちょっぴり怖いことで知られています。
『リトル・マーメイド』と言えば、アリエルの華やかな歌声が思い浮かぶかもしれません。
その一方で、原作『人魚姫』のほの暗さと残酷さを知ることで、童話の世界に深い理解を持つのも一興ではないでしょうか?
この記事では、『人魚姫』のどのあたりが怖くて残酷なのか、少しだけ掘り下げてみたいと思います!
一部ネタバレも含みますので、ご注意くださいね。
『リトル・マーメイド』の原作『人魚姫』について
ハンス・クリスチャン・アンデルセンの童話『人魚姫』は、19世紀のデンマークで生まれました。
いわゆる『アンデルセン童話』の中でも、有名な作品ですね。後のディズニー映画『リトル・マーメイド』の元となる物語です。
しかしこの原作は、楽しくてカラフルなディズニー版とはかなり異なり、もっと深刻なトーンで進み、結末も悲劇的です。
デンマークという国では人魚は古くから伝わる神秘的な存在であり、アンデルセンはこの童話を通じて、人間の世界への憧れと恋愛、そして犠牲について深く探求しています。
空想的な一面もありながら、なかなかに現実的な話でもあるということです。
だからこそ、この物語は読者にとってワクワクするような感じでありながらも、一方で恐ろしいものともなるわけですね。
岩波文庫のアンデルセン童話集なら、1巻に『人魚姫』が収録されています。
では、具体的にどのような物語なのか、まずはあらすじから紹介していきます!
『人魚姫』のあらすじ
海の底で王と共に暮らす美しい人魚姫は、15歳の誕生日に初めて海面に泳ぎ出し、人間の世界を見ることができるようになる。
人間の世界に強い好奇心を抱いていた彼女は、ある日、嵐で船が沈んだ王子を助ける。人魚姫は王子をお寺の近くの海岸に運ぶ。
しかし、王子は人魚姫を見ることはなく、彼を救ったのはお寺の若い女性だと誤解する。
人魚姫は海の魔女を訪れ、美しい声と引き換えに人間になる魔法の薬を手に入れる。
しかし、魔女が言うには、人間になることは王子の愛を勝ち取り、彼と結婚しなければならないという条件がついている。
もし王子が他の女性と結婚すれば、人魚姫は海の泡になって消えてしまう運命にある。
魔女との取引を受け入れて薬を飲むと、人魚の尾は足に変わり、彼女は人間になる。
代わりに、彼女は声を失う。
彼女は王子に見つけられ、美しさと優雅さによって彼を魅了するが、彼女は彼に話すことができない。
結局、王子は別の女性と結婚してしまい、人魚姫は絶望的な運命を迎えてしまう。
『人魚姫』の怖いポイントと『リトル・マーメイド』との違い
『人魚姫』には、その美しい表面下に深い残酷さが潜んでいます。そんな『人魚姫』の怖いポイントを、ディズニー版『リトル・マーメイド』と比較しながらチェックしてみましょう。
人魚姫が舌を切られて声を失う
まず、人魚姫が魔女との取引で声を失うところ。これは映画『リトル・マーメイド』でも同じですね。
この声を失うというのは、物語の中でもわかりやすい直接的な犠牲です。
彼女の声は、海の中でもっとも美しいものと称され、その美声を失うことは彼女にとって大きな痛手でした。
しかもこれ、魔女の魔法で失うならまだしも、よりによって普通に舌を切られてしまうのです。
「やれやれ、お待ちどうさま。」と魔女は言いました。そして、人魚姫の舌を切り取りました。姫はおしになって、もう、歌もうたえず、ものも言えなくなってしまいました。
引用:「人魚姫」『完訳 アンデルセン童話集 1』(岩波書店)
魔女だったら、こんな物理的なやり方ではなく、ササっと術でもかけてほしいところですね。
(※ちなみに、「姫はおしになって」の「おし」は「唖」と書いて耳が聞こえない聾唖の状態をさします。)
声を奪うという行為に関しては、ディズニー版では「契約書」というスタイルでした。
海の魔女アースラが作った契約書にサインしてしまったことで、主人公アリエルの声は失われることとなります。
舌を切り取ってしまった魔女と比べたら、アースラのほうがある意味では優しかったと言えるのかも?
物理的な痛みを伴っていないだけ、原作の人魚姫よりもアリエルのほうがマシだったかもしれません……。
ところで、『リトル・マーメイド』では、海の魔女アースラは主人公アリエルの弱みにつけこんで、自分の住みかまで呼び寄せていました。
が、原作の『人魚姫』では、魔女を訪ねるのはあくまで人魚姫の意思です。
決して、そそのかされたとかではなく、すべて自分から動いています。
なんなら、魔女のほうが人魚姫に対して警告をしてくれているくらいです。
「だが、ことわっておくがね、」と、魔女は言いつづけました。「いったんおまえさんが人間の姿になったら、もう二度と人魚にはなれないんだよ。二度と水の中をくぐって、姉さんたちや、お父さんのお城へは、帰ってこられないんだよ。……」
引用:「人魚姫」『完訳 アンデルセン童話集 1』(岩波書店)
どちらかというと、魔女のほうが現実的で、人魚姫が突っ走ってしまっている感もあります(笑)
ディズニーのアースラは海を支配しようとする完全な悪役ですが、原作の魔女はそうでもなかったりしますね。
人魚姫の足には歩くと激痛が走る
原作『人魚姫』で怖いと感じられるもうひとつのポイントは、人魚姫が魔女から受け取る「声の代わりの足」の描写です。
人魚姫が人間の姿を手に入れるために交換したのは、彼女の美しい声。これがなければ、彼女はただの人魚だったわけですが、声を犠牲にしてまで手に入れた人間の足には代償がありました。
それは、歩くことによる激痛です。
彼女が歩くたびに、ナイフを踏むような感覚になるとアンデルセンは描写しています。彼女はこの恐ろしい痛みに耐えながら、愛する王子に近づこうとします。
ひとあし歩くごとに、魔女の言ったとおり、とがったきりと、鋭いナイフの上を踏んでいるような気がしました。
引用:「人魚姫」『完訳 アンデルセン童話集 1』(岩波書店)
彼女が愛する王子に近づくための「歩み」が、文字通りの苦痛で満たされていたという事実を表しているのでしょう。
なんなら、そんな痛みをこらえながらでも、踊るなんてこともやってのけています。
姫は、足がゆかにふれるたびに、鋭いナイフの上を踏むような気持でしたが、それでも、がまんして踊りつづけました。
引用:「人魚姫」『完訳 アンデルセン童話集 1』(岩波書店)
……想像するだけで痛そうです。
彼女の足は、物語の中でくり返し描かれる悲劇のシンボルとも言えるかもしれません。
原作の『人魚姫』は、このような残酷な描写を通じて、恋愛だけではなく犠牲や選択の結果についても深く考えているように思えます。
ディズニーの『リトル・マーメイド』では、アリエルが人間になるときに足に激痛が走るという描写はありません。
彼女は人間の足を手に入れるとすぐに、新しい能力に適応し、踊り始めます。
ディズニーが子ども向けの観客に対して、より楽観的で楽しい物語にしたいという意図が見てとれますね!
人魚姫の恋の結末が悲劇的
そしておそらく、もっとも痛ましい悲劇は、王子が別の女性と結婚するという結末です。
人魚姫は王子が別の女性と結婚することを知り、自身が海の泡と化して消えてしまう運命を受け入れます。
命をかけて王子に近づいたのに、王子の気持ちを優先して自ら命を落としてしまうわけですね。
この悲劇的な結末は、「愛する人の幸せを願う」という彼女の純粋な心が、結果として彼女自身の破滅を招いてしまう残酷な運命を表しています。
もちろん、王子は人魚姫が自分を救ったことを知らず、自分を助けたのは他の女性だと思い込んでいました。
でも人魚姫は、声を失ってしまったために真実を伝えることができません。
王子は彼女の犠牲を知ることなく、別の女性と結ばれてしまうわけです。
この結末は、愛するがゆえの選択の結果であり、その取り返しのつかない残酷さが、物語の怖さを一層引き立てています。
単なる恋愛物語のように見えて、実際には愛と犠牲、そして運命との闘いの物語なわけです。
ディズニー版とは大きく異なり、現実の厳しさを余すことなく描き出していますね!
もちろん、『リトル・マーメイド』では、こんな悲劇的な結末にはなりません。
アリエルは無事、エリック王子と結ばれて、魔女アースラも倒して契約もなくなります。
ディズニー版では、しっかりと「美しい愛の物語」として、成り立っているわけです。
原作で涙を流した人も、ディズニー版を見れば救われるのかもしれませんね。
それぞれの物語が映し出す視点は違いますが、どちらもその中に深い意味を持っています。
犠牲を意識した悲劇の運命を語る童話『人魚姫』と、夢を追い求めて叶えることのできるディズニーアニメ『リトル・マーメイド』。
それぞれから得られる教訓や感情は、視聴者や読者それぞれの解釈にゆだねられるところです。
どちらの物語にも違った美しさがあり、違った意味でとても心を打たれる作品だと言えるでしょう。
『人魚姫』と『リトル・マーメイド』のその他の違い
その他の違いとして、おもしろいポイントをいくつか挙げてみます。
お姉さんの存在感
『人魚姫』では、主人公の人魚姫には5人のお姉さんがいます。それぞれが彼女よりも1年ずつ年上で、人魚姫がもっとも若く、6番目の娘として描かれています。
5人のお姉さんたちが、1年ごとに順番に海の上に出ていくとされています。
このお姉さんたち、実はちょくちょく海の上に出てきては、人魚姫の様子をうかがっていました。
人魚姫の命が失われそうになったときも、海の魔女と契約をして、人魚姫を救う手立てを考えてくれています。
なかなかに存在感のあるお姉さんたちです。
『リトル・マーメイド』では、助けてくれるのはお父さんのトリトンでしたね。
原作のほうでは、お父さん(王様)は一応いるみたいですが、存在感は皆無です(笑)
海の上の話をするおばあさん
家族関係の話でいくと、『人魚姫』にはおばあさんも登場します。
このおばあさんが、海の上、つまり陸の話や人間の話を聞かせて、孫の人魚姫たちを駆り立てているのです。
さらに言うと、人魚姫が海の上に出ていくとき、身支度をしてくれるのもこのおばあさん。
ということで、おばあさんもけっこう重要なキャラなのです。
海の中でおばあさんが人間の世界を語り聞かせるというモチーフは、同じくディズニー映画の『あの夏のルカ』でもありましたね。
でも、『リトル・マーメイド』では、あくまでアリエルが人間界のアイテムを見つけて、一人で盛り上がっている感じです。
ついでに言うと、『人魚姫』ではお母さんはすでに他界していて、お父さんは先ほども言ったように存在感がありません。なので、主人公の人魚姫に加えて、お姉さんたちとおばあさんが主要なキャラクターとして描かれています。もちろん、セバスチャンやフランダーのようなサブキャラもいませんので、海の世界のキャラとしては、魔女も含めて女性ばかりだということになります。
永遠の魂を求める人魚姫
『人魚姫』は、王子との悲恋の物語として読むこともできますが、実は人魚姫が求めているのは「永遠の魂」です。
人魚姫が強い痛みをともなってまで人間になりたかったのは、人間は肉体が消滅しても魂となって生き続ける……と、おばあさんに教わったからなんですね(人魚のままだと、海の泡となって終了です)。
つまり、王子とものすごく結婚したかったというよりは、「永遠の魂」の探求こそが、人魚姫の目標だったということです。
『リトル・マーメイド』では、アリエルの一番の目標は人間になり、エリック王子の心を勝ち取ることでした。
海の生活から逃れて、自分の世界を拡大したかったんですね。
目標の違いを考えて二つの作品を比べてみると、またまたおもしろくなるのではないでしょうか!
まとめ
ディズニー版『リトルマーメイド』に慣れている私たちにとって、アンデルセン童話の原作『人魚姫』は一筋縄ではいかない深みがあります。
怖いポイントとしていくつか違いを紹介しましたが、このダークな雰囲気がまたいろいろと考えさせられるのではないでしょうか?
それぞれの物語が持つ独自の魅力を理解することで、より深く『リトルマーメイド』や『人魚姫』を楽しむことができるはずです。
ディズニーの楽しさと、アンデルセン童話の原作がもつ暗さと深みのバランスを楽しむことは、それ自体が一つの冒険とも言えますね!
原作もディズニーアニメも、そして2023年6月公開の実写版も、『リトル・マーメイド』の違いをぜひ堪能してみてください!
- 『完訳 アンデルセン童話集 1』(岩波書店)
- 『少女たちの19世紀――人魚姫からアリスまで』(岩波書店)
- 映画『リトル・マーメイド』(1989)ジョン・マスカー、ロン・クレメンツ監督