グリム兄弟は、グリム童話の話を作った人……ではありません。
グリム童話に入っている童話はそもそもグリムさんが作ったのではなく、いろいろなお話を集めて編集したもの。
たくさんの話を各地から集めて、ひとつにまとめたのが、かの有名な「グリム兄弟」です。
「モンスト」や「グリムノーツ」などのゲームでも登場するグリム兄弟。
本当のところは、いったいどんな人たちだったのでしょうか?
この記事では、そんなグリム兄弟について、生い立ちからドイツ語辞典に至るまでの生涯を見ていこうと思います!
グリム兄弟の一家
グリム兄弟は、ドイツのハーナウ出身。
裁判官の父、フィリップ・ヴィルヘルム・グリムと、母、ドロテーアの間に生まれました。
兄と弟の2人だと思われがちですが、実はグリム兄弟は2人だけではありません。9人兄弟です。
9人のうち3人が生後すぐに亡くなってしまったため、6人兄弟とも言われます。
もともとはハーナウに住んでいましたが、1791年にシュタイナウに引っ越しています。
その5年後に父フィリップが亡くなってしまったため、一家の経済状況は厳しくなります。
兄弟も多く、貧しい家庭となってしまったのです。
1798年には、グリム兄弟だけで「カッセル」に住居を移しました。
ここから、2人のめざましい活躍が始まっていくのです。
では、グリム兄弟について、それぞれ詳しく見てみましょう。
グリム兄弟の兄、ヤーコプ・グリム
まず、グリム兄弟の兄のほう、「ヤーコプ」の生い立ちを見ていきます。
- 名前:ヤーコプ・グリム
- フルネーム:ヤーコプ・ルートヴィッヒ・カール・グリム(Jacob Ludwig Carl/Karl Grimm)
- 誕生日:1785年1月4日
- 没:1863年9月20日(78歳)
グリム一家の次男にあたるのがこのヤーコプ。長男が幼いころに亡くなったため、実質ヤーコプが長男です。
外見は、小柄でやせたタイプ。でも、身体は健康だったようです。
父親がなくなったのは、ヤーコプが11歳のとき。
責任感の強いヤーコプは、積極的に弟や妹たちの面倒を見ていました。
弟がけっこう病弱だったため、健康的なヤーコプが家計を支えていたのです。
典型的なお兄さんタイプですね。
あまり人前に出ることは好きじゃなく、一度も結婚することなくその生涯を終えています。
理論的に考えることの好きな、頭のいい人物でした。知的で頭脳明晰です。
活動に関してもかなり精力的に行っていました。
大学の教授となり、文学者としてだけでなく、言語学者、そして法学者としても優秀な成果を残しています。
また、ドイツの政治的な活動にもたくさん関わっていて、1814年のウィーン会議にも参加しているほど。
政治の面でも、かなり活発に動いていたというわけですね。
1848年に教授をやめ、その15年後の1863年に亡くなっています。
グリム兄弟の弟、ヴィルヘルム・グリム
では次に、弟「ヴィルヘルム」の生い立ちを見てみましょう。
- 名前:ヴィルヘルム・グリム
- フルネーム:ヴィルヘルム・カール・グリム(Wilhelm Carl Grimm)
- 誕生日:1786年2月24日
- 没:1859年12月16日(73歳)
ヴィルヘルムは、グリム家の三男。長男が生後すぐに亡くなったので、ヤーコプにつづいて次男となります。
見た目は、ヴィルヘルムのほうが、兄ヤーコプよりも身長が高く、大柄な感じ。
元気でハンサムな男だったようです。
しかし、あるときから病気がちになってしまって、ヤーコプほど社会で活躍することはなくなってしまいました。
身体つきだけ見れば、ヴィルヘルムのほうが元気そうに見えるものの、どちらかというとヴィルヘルムのほうが大人しい感じだったようです。
いろいろな活動に突っ走る兄ヤーコプに対して、ヴィルヘルムは詩的で繊細な感じ。
音楽や絵の才能もあったらしく、グリム童話でも話によく手を加えたり、口出ししたりしています。
アートなテイストを担っていたのは弟ヴィルヘルムのほうなのでしょう。
また、兄とは違って社交的ではありました。
兄が生涯独身を貫いたのに対し、ヴィルヘルムのほうは1825年に、ドルトヒェン・ヴィルトという女性と結婚しています。
昔からの知り合いで、実際グリム兄弟にいくつかのお話を提供していたようです。
ヴィルヘルムの奥さんでしたが、ヤーコプも含めグリム兄弟を支えた重要人物の一人です。
ヴィルヘルムも、ヤーコプと同じく言語学者であり、大学でも教えていました。やめたのは1852年です。
その生涯は、1859年に幕を閉じています。
グリム兄弟の恩師サヴィニー先生
グリム兄弟はともに、「マールブルク大学」に通っていました。
互いに成績が良く、高校を卒業する前に大学へ入学することができました。
兄ヤーコプが1802年、弟ヴィルヘルムが1803年に入学。弟は1年遅れての入学です。
当時は経済状況も厳しく、またナポレオン率いるフランス軍がドイツを制圧していた、まさに激動の時代でした。
そんな中、マールブルク大学で出会ったのが、助教授の「サヴィニー先生」です。
サヴィニーは、グリム兄弟にとってまさに恩師。
歴史のおもしろさを学び、古い文書を読むことの大切さを教えてくれたのがサヴィニーです。
サヴィニーなしでは、グリム童話は生まれなかったかもしれません。
そしてこのサヴィニーが結婚した相手は、ブレンターノ家の娘。
ブレンターノといえば、このころ超有名だったドイツ・ロマン派詩人の「クレメンス・ブレンターノ」です。
サヴィニー結婚のおかげで、グリム兄弟もブレンターノと縁ができたのです。
あわせて、ブレンターノと仲がよかったロマン派詩人の「アヒム・フォン・アルニム」とも縁ができました(アルニムの妻ベッティーナは、ブレンターノの妹)。
そして、アルニムのおかげで、弟ヴィルヘルムはあの有名な「ゲーテ」にも会っています。
作家たちとの縁を作ってくれたのも、サヴィニー先生というわけです。
『少年と魔法の角笛』からのグリム童話
ブレンターノとアルニムがともに出版した『少年と魔法の角笛』という民謡集があります。
この第二弾を出版するにあたって、グリム兄弟はブレンターノとアルニムに協力をしました。
このことが、のちのグリム童話集の誕生に大きな影響を与えています。
民話を集めて本にするとはどういうことなのかを学んだわけですね。
『少年と魔法の角笛』がきっかけとなり、1806年からは自分たちでも民話を集めるようになります。
そして、1812年に『グリム童話集』の初版が誕生するのです。
グリム兄弟が始めたドイツ語文法
その後、1814年に兄ヤーコプはヘッセン侯国の秘書として「ウィーン会議」に参加するなど、外交の仕事が忙しくなりました。
弟ヴィルヘルムは、一人カッセルで図書館秘書となっていましたが、1816年から、グリム兄弟はともにカッセルの図書館で司書として働くことになります。
その頃から、グリム兄弟はドイツ語の文法研究にも力を入れ始めました。
童話から文法?と思われるかもしれませんが、グリム兄弟は「ドイツ語文法をまとめた第一人者」とも言われるくらいのレベルです。
兄ヤーコプは『ドイツ文法』という本も書きあげています。
グリム童話のおかげで「作家」のイメージがついているかもしれませんが、普通に「言語学者」なのです。
1830年代には、『ドイツ文法』のつづきを出版しつつ、兄弟ともにゲッティンゲン大学で教授として働いていました。
しかし、「ゲッティンゲン七教授追放事件」という事件に見まわれ、大学から追い出されてしまいます。
グリム兄弟の晩年はドイツ語辞典作り
その後1841年からは、2人そろってベルリン大学で教え始めています。
この頃はもう、グリム兄弟の頭にあるのは「ドイツ語辞典」です。
グリム兄弟の有名な仕事といえば、グリム童話だけではありません。
ヤーコプもヴィルヘルムも、大学で教えながら「ドイツ語辞典」の制作を始めたのです。
辞書を作るなんて一大事業。
なかなか簡単に終わるものではありません。
残念ながら、2人が生きている間には辞書は完成しませんでした……。
その後、ドイツ語辞典が完成したのは1961年になってから。
長年の研究が後世に受け継がれ、100年以上かけてようやく完成したのです。
ドイツ語辞典の編集をやり始めた、グリム兄弟の貢献度は極めて大きいのです。
まとめ
「グリム兄弟」について、その生涯をざっくりと紹介させていただきました。
『グリム童話集』という、世界で最も読まれている童話集を作った2人の兄弟。
グリム家の兄弟が実は9人だったというのは、意外と知らなかった人も多かったのではないでしょうか?
他にも活躍しているグリム家の人たちはもちろんいますが、やはりヤーコプとヴィルヘルムの功績は大きいです。
グリム童話はもちろんのこと、ドイツ語文法やドイツ語辞典など、言語学の世界でも大活躍していたのです。
グリム兄弟が生まれ育ったハーナウにあるマルクト広場には、ヤーコプとヴィルヘルムの銅像も建てられています。
まさに街を代表する2人ですね。
これをきっかけに、あなたもぜひグリム兄弟に親しみをもって、グリム童話を読んでみてください。