2026年9月日本公開、クリストファー・ノーラン監督の映画『オデュッセイア』に感動したことを記念して(?)、原作であるホメロスの古代ギリシャ叙事詩『オデュッセイア』を特集します!
今回は、セイレーンの歌について探ってみたいと思います。
セイレーンといえば、美しい歌声で船乗りを誘惑する怪物。
『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』のイメージもあって、セイレーンといえば人魚を想像する人も多いかもしれません。
もともと、『オデュッセイア』のセイレーンは「怪鳥」だったのですが、だんだんと人魚のイメージに変わっていったそう。
そして、人魚といえば、やっぱりアンデルセン童話の『人魚姫』ですね!
ということでこの記事では、これらの作品に登場するセイレーンや人魚たちを、「声」というキーワードを軸に比較してみたいと思います。
年代も地域もぜんぜん違うこの3作品、水の女の声でいったいどうつながるか、探ってみましょう!
ここから先は、各作品の一部ネタバレになる可能性があるのでご注意ください。
『オデュッセイア』に登場する「セイレーン」とは?
セイレーンは人魚じゃなくて鳥
セイレーンは、歌声で船乗りを誘惑する怪物です。
ホメロス原作の『オデュッセイア』では、その美声によって、オデュッセウスとその仲間たちを誘惑します。
そして、冒頭でも述べましたが、セイレーンは厳密には人魚ではありません。
岩波文庫の呉茂一訳の『オデュッセイア』では、第12書の小見出しに、「歌う怪鳥セイレーネス」と書いてあります。
怪鳥です。
そう、鳥なんです。
グリム童話にも、『怪鳥グライフ』(KHM165)というお話があり、キリスト教徒を食べる鳥が登場しますが、そういった鳥の化け物的な存在なわけですね。
ちなみに、「セイレーネス」は複数形、「セイレーン」が単数形です。
ところが、この怪鳥セイレーンは、徐々に魚の姿に変わったそうです。
翼が消えて下半身が魚になったり、裸になった水の精として描かれたりしているらしいです[1]。
水の精の関連でいえば、グリム童話の『池にすむ水の妖精』(KHM181)では、人を水の中に引き込む恐ろしい水の精が描かれたりしています。
海にいて、岩に座っていて、歌って、船乗りを海へ引き込む……と言われると、なんとなく人魚の姿をイメージしたくなるかもしれませんね。
そういえば、ドラえもんの大長編映画、『ドラえもん のび太の魔界大冒険』で、人魚が海の上の島みたいなところで歌を歌っていて、みんなを海へ引き込もうとするシーンがあったりします(ジャイアン大活躍の場面です!笑)。
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こういった国民的アニメのネタもあって、なんとなく「歌ってる」「水の中へ引き込む」みたいな話になると、人魚っぽい姿を想像したくなる人もいるかもしれませんね。
英雄オデュッセウスを誘惑するセイレーン
では、本来は怪鳥であった『オデュッセイア』のセイレーン。
この怪物の歌で、オデュッセウスたちはどうなるのか?
『オデュッセイア』の第12書に、オデュッセウス一行がセイレーンの住む島(シチリア島あたりらしい)を舟で通り過ぎる場面があります。
トロイア戦争を終え、故郷を目指すオデュッセウス。
その船が島へ近づくと、セイレーンたちは彼に呼びかけます。
誰とも知らない船乗りを呼び止めるのではなく、英雄オデュッセウスだとわかったうえで、船を止めて自分たちの声を聞くように誘うわけです。
以下は、セイレーンがオデュッセウスたちに声をかけるシーンです。
… セイレーンどもは早くも近くに、
海をはしこく航(ゆ)く船が進んで来たのに気がついて、声高に歌いあげるよう、
「さあこちらへ。評判の高いオデュッセウスさん、アカイア勢の
たいした誉れの。お船をどうかお寄せ下さい、私たちの声を聞いて頂ける
ようにね、だってこれ迄一人として、黒い船に乗りここを通っておいでの方で、
私どもの口を出る甘く楽しい歌声を、聞かずにすませた方はいません。」
引用:『オデュッセイアー(上)』(岩波書店)
この場面において、船員たちは耳に蜂蜜蠟(はちみつろう)を詰めて何も聞こえないようにします。
しかし、オデュッセウスだけは「どうしてもその歌を聞きたい」と願い出ます。
そして、舟のマストに体を何重にも固く縛り付けられた状態で歌を聞く……という展開になります。
セイレーンの歌は知識という約束?
セイレーンの歌を聞けば「知れる」
セイレーンはただ美声を披露しているだけではありません。
オデュッセウスの名前を呼び、彼が経験した戦争の話を持ち出し、「トロイアで経験した苦労を知っている」と歌います。
「みんなもちろん楽しんでから、前よりもっと物識(し)りになりお帰りでしたわ。
なぜなら私どもは、すっかり知っているのですもの、広々としたトロイアの里でアルゴス勢とトロイア方とが、神々の御意向によりどんな苦労を重ねたかも。
何でも知っていますのよ、万物を養い育てる大地の上で起ったことなら。」
引用:『オデュッセイアー(上)』(岩波書店)
知識への誘惑、ですね。
確かに、いきなり自分の名前を呼び止められ、何でも知っているぞ……と言われると、ぜひとも立ち止まって聞いてみたくなりそうです。
そもそも、一行のリーダー的存在であるオデュッセウスは、自身の胸の内を仲間クルーに打ち明けられるようなキャラではありませんでした。
孤高の英雄なんです。
そんな彼が、「どんな苦労を重ねたか」知っている、なんて言われてしまったらもうね……。
思わず、聞きたくなってしまうのも無理ないでしょう。
なにせ、オデュッセウスは故郷イタケーを離れて、遠征して10年以上もトロイアで戦い、たくさんの仲間を失っています。
さぞかし、心の傷も深いことでしょう。
そんな中で、その苦難のすべてがわかっている人(怪物)から、「何でも知っている」なんて言われてしまって……気になってしかたがないと思います。
ましてや、オデュッセウスはもともと賢いキャラクターであり、頭を使うタイプです。
物事を知るという行為は、彼の中でもかなり優先順位の高いことだったと思います。
苦難を「知っている」と語りかけ、「楽しんで」から、もっと「物識り」になると約束する。
セイレーンの声は、オデュッセウスにとっての救済とも言えますね。
ちなみに、ノーラン監督の映画版では、マット・デイモン演じるオデュッセウスが「約束の歌」と言っていました。
声がきれいだから誘惑されるわけじゃない。
肉体的な美しさへ惹かれるわけでもない。
なんか、聞いてみたい……知りたい……。
セイレーンの歌には、そんな魔力があるわけです。
魔女キルケーからの警告も無視
ついでに言うと、オデュッセウスはセイレーンの歌について、魔女キルケーから警告を受けていました。
「… もしも知らずにそばへ来て、このセイレーンたちの
声をひとたび耳にしたら、もうその人は家に帰って、奥さんにも
また幼い子供らにも取り囲まれて、よろこびあいもできなくなります、 …」
引用:『オデュッセイアー(上)』(岩波書店)
二度と奥さんのもとへ帰れない。
オデュッセウスのここまでの航海を全否定するような、『オデュッセイア』という作品の根幹を揺るがすような、そんな警告です。
家に帰るお話なのに、家に帰れないなんて……。
これは、全力で避けるべき大きな障害なのです。
なのに、なぜ!?
オデュッセウスよ。
あなたは、あえてセイレーンの歌を聞きたくなってしまったのか?
ここで、もうひとつ、魔女キルケーからオデュッセウスに送られたメッセージに注目してみましょう。
「… 部下(てした)の者らの耳には十分
味の甘い蜂蜜蠟を温めて捏(こ)ねたのを、塗りこめといてね、余人はだれも
聞かないように。でもご自分だけもし聞きたいとお望みなら、
進みの迅(はや)い船へしっかり手も足も、縛りつけておくように命じなさい、
帆柱のもとへまっ直にでも
…
セイレーンたちの歌ごえをあなたが聞いて、たのしむことができるように。」
引用:『オデュッセイアー(上)』(岩波書店)
「聞きたいとお望みなら」と、どうしても聞きたいんだったら、条件付きで聞くのもアリだと提示してくれています。
その場合は、「手足を縛りつけておく」ことが必須です。
もちろんこれは、手足を縛り付けないと、海へ身を投げ出してしまうからです。
ところが、オデュッセウスはこの案件に関して、キルケーが自分に告げたセイレーンの警告として、船員たちに次のように伝えています。
「… しかもその声を聞くのは、私一人に限れと命じる、だがその私とてもきびしく
帆柱のもとへまっすぐに縛りつけておけ、 … 」
引用:『オデュッセイアー(上)』(岩波書店)
えええ、ちょっと待ってください!
キルケー様は声を聞けなんて「命じ」てはいないですよ!
「聞きたいとお望みなら」という選択肢を与えただけで、まったくもって命令でも指示でもなんでもありません。
自分の「聞きたい」という願望を、ちゃっかり魔女のせいにしちゃってます(笑)
自分だけが唯一、セイレーンの歌を聞いて生きのびた英雄になる、という自負があったのかもしれませんね。
実際には、セイレーンの歌が聞こえてきた途端に誘惑に負けそうになり、縄をほどくよう部下に合図を送ります。
しかし、部下は逆に縄を強く縛り付けて、オデュッセウスは救われるのです。
ノーラン監督の映画では、オデュッセウスが我を忘れてもがき苦しむ様子が、よく描かれていましたね。
このあたり、オデュッセウスという人間の弱さや愚かさが見えてくる部分なのかもしれません。
表面的にはしっかりものの策略家。
だけど、内面的には不完全。
『イリアス』で大暴れしたアキレスとは対照的に、賢く冷静な戦士として描かれたオデュッセウス。
ですが、『オデュッセイア』での航海においては、こういった愚かな一面が垣間見られます。
『イリアス』は同じくホメロスが書いたとされる叙事詩で、トロイア戦争を描いています。
『オデュッセイア』は『イリアス』の後日談となる話です。
ノーラン監督の映画でも、オデュッセウスの内面的弱さがうまく描かれていたと、筆者個人的には思います。
アキレスとの対比や、オデュッセウスの人物像が気になる方は、ぜひ『イリアス』も読んでみてください。
有名な「トロイの木馬」の場面は描かれていませんが、オデュッセウスの登場場面はそこそこあるので、キャラクターの雰囲気もわかると思います。
ただ、『イリアス』の原書は『オデュッセイア』と比べてだいぶ長いです。
なので、時間のない方は、ハリウッド映画『トロイ』をチェックしてみてください。
オデュッセウスとアキレスの対比がわかりやすいですし、トロイの木馬のシーンまで描かれているので、映画『オデュッセイア』の理解も深まります。
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『人魚姫』では声が奪われる
さて、『オデュッセイア』に登場するセイレーンは声で人間を惑わす怪物でしたが、アンデルセン童話の『人魚姫』はどうでしょう?
『人魚姫』では、人間を海へ誘う一方、人間の声に誘惑されるという構図が見られます。
詳しく見てみましょう。
人魚姫のお姉さんたちの歌
アンデルセン童話の『人魚姫』といえば、声を失って人間になる主人公のイメージが強いかもしれません。
ですが、人魚姫の5人のお姉さんたちにも注目です。
実は人魚姫のお姉さんたちは、その美声を生かして、船乗りたちに歌を歌っているのです。
5人で腕を組んで海面に浮かび、嵐が来て船が沈みそうなときに、海の底がどれほど美しいかを歌います。
そして、船乗りたちに下へ来るのを怖がらないよう呼びかけるのです。
あらしになって、船が沈みそうになりますと、その前を泳ぎながら、どんなに海の底が美しいかということを、それはそれはいい声でうたいました。そして、海の底へ行くのをこわがらないでください、と頼むのでした。
引用:「人魚姫」『完訳 アンデルセン童話集 1』(岩波書店)
海の底の美しさ……。
人魚たちにとっては、心の底から住み心地のよい場所だと思っているのでしょう。
でも、人間がそこへ行けるということは、海で溺れ、あの世へ召されてしまうことを意味します。
セイレーンみたいに誘惑しているわけではないものの、海底へ誘う歌を歌っているという点では似ていますね。
決して、人魚たちに悪意はありませんよ!
声がなくなる人魚姫
一方、主人公の人魚姫はどうでしょうか。
人魚姫は逆に、人間たちの歌声に引き寄せられ、船の様子をのぞき込みます。
帆げたの上や、帆づなのまわりには、水夫たちが腰をおろしていました。やがて、音楽と歌が聞こえてきました … 人魚姫は船室の窓の近くへ、泳いで行ってみました。
引用:「人魚姫」『完訳 アンデルセン童話集 1』(岩波書店)
こんなに楽しそうに歌ってと言わんばかりに、人魚姫が人間の営みを目撃する場面です。
そしてここで、初めて目にするのが王子であり、恋をしてしまいます。
つまり、アンデルセン童話では、人間の声に人魚が惹きつけられる、という構図になっているのです。
さらに、王子に恋してしまった人魚姫は、人間の姿になるため、声を差し出さなくてはなりません。
彼女は海の世界でも、とりわけ美しい声の持ち主とされています。
その声を代償とし、魔女によって舌を切り取られるという痛みをともなう方法で声がなくなってしまうのです。
よって、人魚姫はもう話すことすらできません。
この辺のことは、以下の記事でも詳しく書いています。

人間になった人魚姫は王子のそばで暮らしますが、嵐の中で王子を助けたという事実を伝えられません。
このあたり、『オデュッセイア』のセイレーンと比較してみると、まさに対極にあることがわかります。
- セイレーンは、苦難を知っていると語り、聞き手を呼び止める
- 人魚姫は、自分がしたことを知っているのに、相手へ伝えられない
声を発することによって、オデュッセウスの知識欲を満たそうとするセイレーン。
声を失うことで、人間になりたいという願望を叶える人魚姫。
似て非なるものであるセイレーンと人魚ですが、有名な人魚のお話である『人魚姫』では、声の扱い方が逆なんですね。
精霊のように響く人魚姫の声
『人魚姫』の声の話には、もう少しつづきがあります。
声を失ったままのバッドエンディングかというと、そういうわけでもありません。
確かに人魚姫は、最後に泡になってしまうのですが……。
その先で、「空気の精」たちの仲間になります。
その空気の精たちと、人間の耳には聞こえない不思議な声をもって、人魚姫は話ができるようになります。
「わたしはどこへ行くのでしょう?」と、姫は言いました。その声は、もう、あたりに漂っているものの声と同じで、この世のどのような音楽も、およばない、不思議な響きを持っていました。
引用:「人魚姫」『完訳 アンデルセン童話集 1』(岩波書店)
そう、「彼女の声」には「響き」があるのです!
それも、「この世のどのような音楽も」を超える、素敵な音なんです。
人間に届く声ではありませんが、最後に精霊のような声として、進化して終わるわけですね。
ある意味、最後の最後で、声が一段とレベルアップして終わるような、そんな印象です。
『ちいかわ』のセイレーンと人魚たち
最後にもうひとつ、2026年夏に話題をかっさらった『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』について、見てみましょう。
原作漫画の「セイレーン(島)編」もありますが、今回は映画ベースで話を進めます。
セイレーンと人魚の共存
『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』では、「セイレーン」と「人魚」が別々のキャラクターとして同時に登場します。
歴史の中でいつの間にか混ざり合い、「セイレーン=人魚」と同一視されるようになっていた2つの存在を、現代の人気アニメが別々に描いているんですね。
興味深いポイントです!
セイレーンのキーワードとしては、やはり歌ですね。
どこか古代の怪物を思わせるような圧倒的な強者であり、その美しい歌声で島の植物を急激に成長させたり、島民たちを支配したりする……。
まさに、強大な力として描かれます。
原作・脚本担当のナガノさんは、セイレーンの声優を選んだ際、「かわいらしさと怖さの両方を表現できて、さらに歌が得意な方」が良かったと語っています[2]。
歌う恐ろしい怪物、というセイレーンのモチーフが、あの可愛らしいアニメの中でもうまくハマっていましたね。
そこに歌う人魚たちも加わってきて、セイレーンと人魚の共存劇が生まれたわけです。
セイレーンと人魚たちの声の役割
ここでおもしろいのは、セイレーンは言葉を話し、人魚は話さないという点です。
『ちいかわ』という作品には、そもそも話すキャラと話さないキャラがいますが、それぞれセイレーンと人魚が割り当てられたわけです。
しかし、人魚たちは、セイレーンの歌には、コーラスとして加わってきます。
セイレーンが歌うと植物のツタが伸びてきて、ちいかわたちに襲いかかります。
しかし、人魚たちのコーラスが狂うと、このパワーは落ちてしまうんですね。
コーラスがつけばパワーは上がり、コーラスが狂えばパワーが落ちる、という関係でしょうか。
混同されていたセイレーンと人魚のモチーフが、互いに補い合い、うまく混ざり合っている感じがします。
強大なパワーを持ったセイレーンと、話さないが歌を歌う人魚たち。
なんとなく、『オデュッセイア』のセイレーンや、アンデルセン童話の『人魚姫』ともつながっていて、おもしろいですね。
改めて、古典文学や民話が、現代のアニメまでつながっているという物語の流れを感じます……!
漫画版の『ちいかわ』の「セイレーン(島)編」はこちらの本で読めます。
『ちいかわ』の他のエピソードは、U-NEXTで観られます。
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まとめ
ということで今回は、『オデュッセイア』のセイレーンの歌と、アンデルセン童話の『人魚姫』、そして『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』を、声の観点から探ってみました!
『オデュッセイア』の怪物セイレーンは、知識を与えるという約束を歌い、声でオデュッセウスを誘惑します。
『人魚姫』では、5人のお姉さんは海底は怖くないと歌い、人魚姫は声を引き換えにして人間となり、やがて泡となって別の声を手に入れます。
このようなセイレーンや人魚姫のモチーフが、『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』ではかわいさと怖さを背景に共存しています。
時代も国もまったくバラバラな3作品ですが、セイレーンと人魚というキャラクターでつながっているのが、とてもおもしろいですね!
もちろん、これらの3作品以外にも、さまざまなアニメや漫画、ゲームなどのフィクション作品でセイレーンや人魚は登場します。
興味のある方は、ぜひいろいろ探ってみてください!
- アンデルセン(著)『完訳 アンデルセン童話集 1』大畑末吉(訳) 岩波書店, 1984年.
- ホメロス(著)『オデュッセイアー(上)』呉茂一(訳) 岩波書店, 1971年.
- ホメロス(著)『オデュッセイアー(下)』呉茂一(訳) 岩波書店, 1972年.
- 片岡照男『ジュゴン―人魚学への招待』研成社, 1997年. [1]
- 上田高弘「セイレンの歌はどんなだったか―ホメロス『オデュッセイア』第12巻の挿話における魔力とその失効をめぐって」『立命館文學』vol. 692, 2025, pp. 1–22.
- Tam, Pauline Po Chun. “Silence and Voice in Literary Representations of the Mermaid in World Literature.” UCLouvain doctoral thesis, 2012.
- Sano, Yoshinori. “The Allure of the Sirens in Greek Classical Literature.” Gender and Sexuality, no. 13, 2018, pp. 49-60.
- 「『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』原作・脚本:ナガノ オフィシャルインタビュー」https://chiikawa.toho-movie.jp/interview/nagano.html [2]
- 映画『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』(2026年)及川啓監督
- 映画『オデュッセイア』(2026年)クリストファー・ノーラン監督
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